苦手なマインドマップ

最近マインドマップが流行っている。自分の周りでも、ミーティングやセミナーなどの覚え書きとしてマインドマップを描く人をボチボチ見かける。中には、自分用の記録として使うだけでなく、ミーティングの目的や議事録をマインドマップで描いて画像を送りつける人もいる。

しかし自分はマインドマップが苦手である。一応、仕事でモデリングをやることが多いので、セマンティクスがいい加減な図には非常な抵抗を感じる。楕円のアイコンを描くときは、それがクラス(集合)なのか、インスタンス(集合の要素)なのか、状態なのか、アクティビティなのかを意識せずにはいられない。同様に線や矢印も、関連なのか、リンクなのか、継承なのか、イベントなのか、遷移なのかをハッキリさせないと気が済まない。(もちろん関連ならば多重度もきちんと定義しないと納得できない)。アイコンや線の意味が違うならば、当然描き方を変えるのが筋である。一つの図の中で、同じ記号を場面によって違う意味で使うなんてあり得ない。渡辺幸三さんの名文句である「無責任な矢印」を引き合いに出すまでもなく、これはモデラーとして当然のたしなみである。キッパリ(笑)。

こんな自分だから、誰かが描いたマインドマップの図を見ると、なんとも言えない気持ちになる。とはいえ、描き手の頭に思い浮かんだことをフィーリングでレイアウトしていく図でだから、内容のセマンティクスや一貫性を問うこと自体がそもそも間違っているのはわかっている。

しかし、マインドマップがここまで流行ったことで、UMLなどの図式表現によるモデリングの効用を再認識した。図式表現によるモデリングは、物事を論理的に整理することに加えて、イメージとして覚えやすい成果物を作れる効果もある。過去のプロジェクトで作ったクラス図を数年後に見直したりすると、その時の参加メンバーの様子や部屋の雰囲気、季節の感覚などを一気に思い出せることがある。これなどは図だからこそできる芸当だろう。またUMLの記法をきちんと理解してない人でも、モデリングセッションで議論をしながら、クラス図を見てフムフムと頷いている場面を見かけることもよくある。これもクラス図をマインドマップのようにイメージとして理解しているのだろう。

そういう意味で、速記録としてマインドマップを使うのは有効だと思う。しかしそれでも自分はマインドマップが苦手だ。だから使いたくない、というよりも意地でも使わないぞ(笑)。もちろん他の人がマインドマップを使うのは一向に構わない。それでも、そのマインドマップを議事録代わりに送りつけるのはやめてもらえないだろうか。だって、マインドマップを描く自由もあるが、拒否する自由だってあるはずだから。

しかし、これを書きながらあることに気づいた。UMLを理解してない人から見れば、ヒアリングをしながらクラス図を描く自分は、マインドマッパーと同じ人種に見えるのでは?ということを(笑)。