「のである」でいいのだ

以前、『日本語練習帳 (岩波新書)』を読んでから「のだ、のである」を使えなくなったことを書いた(id:ahirasawa:20050815)。しかし先日紹介した『わが子に教える作文教室 (講談社現代新書)』の清水義範さんの文章は「のだ、のである」が多いにも関わらず、少しも嫌みがない。むしろ「のだ、のである」が文章の面白さを醸し出している気がする。この違いは一体何なのかを考えてみた。

すぐに思いついたのが、バカボンのパパの「これでいいのだ」である。あれは「のだ」だからこそ成り立つ表現である。これがもし「これでいいです」や「これでいいよ」だったら面白くも何ともないし、「これでよい」だったらバカ殿様だ。

この理由として、独善的だからということに気づいた。「客観的にはどうあれ、自分はこの説を断固主張する」という立場だと、相手につけ入る隙があるから嫌みが少ない。理屈になっていないことを断定する独善度合が強くなると、滑稽になるため、コミカルな味わいの方が強くなる。

しかし、一般的な真理や事実に対する主張を「のです、のである」とやると、『日本語練習帳 (岩波新書)』の著者が主張するように「自分だけが知っていることを教えてあげる」というニュアンスが出るため、嫌みも出てくる。

そうか、わかったぞ。

  • 独善的なことを述べたいなら、「のだ、のである」を使っていいのだ。
  • 一般的なことでなければ、「のだ、のである」は嫌みにならないのです。

あれ、なんか変だぞ?どちらも一般的なことを述べているのに2番目の文章には嫌みがある。もしかして「のだ」と「のです」の違いだったのかな?